昨日の地元紙に、落葉掃除の記事を見つけた。
近隣住民や地元の中学生、役所職員の方々が集まり、官庁街の落葉掃除をされたのだという。
合併前は隣市だったので)詳しいことは知らないが、何でも20年ぐらい続く恒例行事なのだそうだ。
市広報でも告知されていたので行ってみようかなとも思ったが、わざわざ隣町から出向いて参加するのも違和感があるな、と思いとどまる。
ここで、「隣町から出向く」と思うこと自体、まだ心から新市の一員であるという自覚が欠けているなと、そんな自分をちょっと恥ずかしくも思う。
「街の中にゴミのない街を目指す運動の一環。この運動が全市に広がり、全国一きれいな街、美しい街になることを願っている。」
これは、記事中の市長さんの挨拶だ。
皆さんが善意で奉仕されていることは素晴らしいことだと思うが、落葉が無くなれば街が美しくなるというふうにも取れて、すこしばかり違和感を感じてしまった。
ここで思ったこと、落葉って、ゴミなのか?
酸素を作ってくれる葉、木陰を作ってくれる葉、街のホコリを吸着してくれる葉、気温や舗装面の温度を緩和してくれる葉、紅葉を楽しませてくれる葉、人々に潤いと安らぎを与えてくれる葉・・・
樹木の葉がもたらす効果は、まだまだたくさんある。
人間は、こんなにも樹木の恩恵を受けていながらも、一度木から離れてしまった葉はゴミと呼ばれる。
道路に落ちてしまったらゴミなのか。
紅葉が終われば、木の葉はただのゴミなのか。
鮭が産卵を済ませて生涯を終えた姿を見た時、多くの人は「お疲れ様。」という優しい気持ちを持つのではないかと思う。
樹木の葉が地球にもたらす働きは大きい。
木も鮭も同じ生き物、そんな大役を果たした落葉に対しても、ねぎらいの心を持てる人間でありたいと願う。
ゴミという言葉を辞書引きすると、「利用価値のない汚いもの」と出てくる。
落葉は汚いか?
この街路樹の落葉は、街の花植え事業の腐葉土などにも使われると聞く。
雨で地面に張り付いた葉を汚らしく感じる方もいるかもしれないが、この葉が数年後、街にきれいな花を咲かせてくれると思えばどうだ。
落葉を袋に詰めて出せば市が回収してくれるから、ゴミとして捨てれば落葉もただのゴミだが、再生し、次に活かすことが出来れば、ゴミではなく資源となる。
木は土から生まれたもの、土から生まれたものは土に還るのが自然。
世界遺産白神山地のブナ林に落ちる葉は有り難いと尊ばれるが、街の樹木が落とす葉はゴミと呼ばれる。
山に落ちる葉は地球にとってかけがえのない財産と言われるが、同じ木の葉でも、落ちる場所が違うとゴミになる。
「山水に得失なし、得失は人の心にあり」
稀代の作庭者でもあった、室町時代の僧、夢窓国師の言葉を思い出す。
「自然に美は無い。美は、自然を美しいと思う人の心の中にある」という意味なのだそうだ。
「得失」を「ゴミ」と置き換えてみたらどうなるか。
落葉をゴミだと思う人の心がゴミゴミしている、ということになるのではないだろうか。
かく言う自分も、つい最近まで、剪定枝のことをゴミと言っていた。
周りでずっとそういう言い方をしていたので、自然とそんなもんだと思い、たいした考えも無くそう呼んでいた。
植木屋で、剪定枝をゴミと呼ばない業者のほうが珍しいと思う。
仕事以外では、庭や道路に舞い落ちる落葉の風情を感じても、いざ仕事で庭に入れば、落葉は掃除の対象で仕事の一環となる。
植木屋は、自然を扱い、自然と接する最たる仕事だと思うが、仕事でやっていると、自然本来の当たり前の美しさに気付けないこともある。
そんな自分自身を見直す機会があって、ここ数年は、仕事でゴミという言葉を使わないことにしている。
ゴミも使いようでは資源。
露地は廃物利用の庭、見立ての庭といわれるように、庭で発生したものをゴミにするか素材にするかは、作庭者の心がけひとつだ。
先日、自宅の前に落ちた木の葉を子供が拾っていた。
真っ赤に色づいた葉、黄緑から赤へ色変わりする途中で落ちた葉、虫食いの葉、ケヤキの葉、モミジの葉、いろいろある。
一枚一枚が違う葉を、面白がって拾う子供たち。
時々「お父さん、見て見てきれいだよ」と叫ぶ。
きれい。
きれいなものをきれいと思う心がきれいなのだ。
何気ないものをきれいだと思う心がきれいなのだ。
美しいと思う気持ちが心の豊かさを育てる。
落葉はこんなにも人の心を豊かにしてくれる。
子供に、そんな感情を抱かせてくれた葉っぱたちに感謝。